牧水が愛した群馬の地酒と温泉 第三話  花敷~沢渡~四万 2024年06月21日号

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あてもなく旅を続ける歌人・若山牧水(1885~1928)。草津より暮坂峠を越えて、沢渡、四万へ。歌を詠み、湯に浸かり、酒を飲む日々。水源を求めて、自由気ままな温泉と酒三昧の旅はつづく

目次

ファンの聖地、暮坂峠

暮坂峠に立つ牧水の石像と詩碑

『ひと夜寝てわが立ち出づる山かげのいで湯の村に雪降りにけり』

 大正11(1922)年10月20日、未明。牧水は花敷温泉(中之条町)の宿「関晴館」(廃業)で目覚めると、外は薄雪が積もっていた。前の日は渓谷に湧く野天風呂に入り、疲れを癒やしたものの、夜になると木枯らしが激しく吹き荒れ、樹々の山鳴りのような音に、なかなか寝付けなかった。

<上野の草津の湯より 沢渡の湯に 越ゆる路 名も寂し暮坂峠>(『枯野の旅』より)  

 紀行文「みなかみ紀行」で一番有名な場所といったら、ここ。牧水ファンにとって暮坂峠は聖地である。この場所で、現在でも地元有志らにより毎年「牧水まつり」が開催され、詩碑が立っている。 ただ残念なのは数年前、牧水のブロンズ像が盗まれるという事件があった。捕まった犯人らの目的は、銅が高値で売れるからという理由だった。まったくの不届き者である。現在は新しくなった石像の牧水が、旅人をやさしく見下ろしている。

沢渡から馬車に乗って

花敷温泉に立つ歌碑
沢渡温泉共同浴場

 峠を越えて約3里(約12キロ)、正午近くに牧水と弟子のK―君(門林兵治)は沢渡温泉(中之条町)に着いた。著書には<正栄館というのの三階に上った。>とあるが、これは牧水の記憶違いで、正しくは「正永館」である。現在の共同浴場のあたりにあったらしい。
<無色無臭、温度もよく、いい湯であった。此処にこのまま泊まろうか、もう三、四里を歩いて四万温泉へ廻ろうか、それとも直ぐ中之条へ出て伊香保まで延ばそうかと二人していろいろに迷ったが、終に四万へ行くことにきめて、昼食を終るとすぐまた草鞋を穿いた。>
 宿を出た2人は北へ向かって歩き出し、折から来合わせた馬車に乗り、意気揚々と四万温泉(中之条町)に向かった。しかし、この後、今旅最大のピンチが待ち受けていたのである。それは思わぬ冷遇だった。怒り心頭に発した牧水は、こう記している。
<私は此処で順序として四万温泉の事を書かねばならぬ事を不快におもう。いかにも不快な印象を其処の温泉宿から受けたからである。>

四万独自の「おうかがい式」

四万たむら(旧田村旅館)

 投宿したのは、四万きっての老舗宿「田村旅館」(現・四万たむら)だった。牧水は、何をそんなに立腹したのかといえば、宿の応対だった。「どのくらいの滞在予定か?」を訊かれ、「一泊だ」と応えると、離れの古びた部屋に通されてしまう。一方、今一組の商人風の2人連れは、「滞在」と聞くと新しい建物へ案内された。さらに夕食時、岡持ちで料理を持ってきた小僧が代金を請求したため、ますます機嫌を悪くした。 しかし長年、四万温泉を取材してきた私にしてみれば、ひと言、牧水に苦言を申したい。あなたは四万という温泉地に対して、あまりにも無知だった。昔ながらの湯治場で、半自炊しながら一週間から半月以上の長逗留する客がほとんどだったのだ。また当時は、四万独自の「おうかがい式」という泊食分離のシステムが主流で、料理は仕出し屋が旅館に入り、客の注文を取っていたのである。 さて、不快な思いをしたとはいえ、その晩も牧水は酒を注文している。なんという酒を飲んだのか?

「貴娘」と「牧水の詩」

 中之条町で今も営業を続けている酒蔵は、明治5(1872)年創業の貴娘酒造だけである。大正時代には、すでに酒銘「貴娘」はあった。現在は「牧水の詩(うた)」という純米酒も販売している。フルーティーでまろやかな味わいは、牧水ファンを魅了する。

(フリーライター/小暮淳)

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この記事を書いた人

群馬県内のタウン誌、生活情報誌、フリーペーパー等の編集長を経て、現在はフリーライター。
温泉の魅力に取りつかれ、取材を続けながら群馬県内の温泉地をめぐる。特に一軒宿や小さな温泉地を中心に訪ね、新聞や雑誌にエッセーやコラムを執筆中。群馬の温泉のPRを兼ねて、セミナーや講演活動も行っている。

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