ぐんま謎学の旅 続・民話と伝説の舞台(5) 「頼朝伝説」2025年07月04日号

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頼朝が見つけた群馬の名湯

草津温泉をはじめ吾妻郡には、源頼朝が発見したと伝わる温泉地が点在する。なぜ、この地に多くの開湯伝説が残るのか? 伝説を追って温泉地を訪ねると、いくつのも痕跡を見つけることができた。

谷間に立ち昇る湯煙

 古湯と呼ばれる何百年も歴史のある温泉地には、必ず発見伝説が残されている。大きく分けて、鳥や獣が見つけたとされる動物発見伝説と、歴史上の偉人が見つけたとされる人物発見伝説である。

 人物発見伝説には「御三家」と呼ばれる人たちがいる。地域によって異なるが、群馬は日本武尊、弘法大師(空海)、源頼朝が有名である。中でも源頼朝の伝説は、吾妻郡に多く残っている。

 源頼朝といえば建久3(1192)年に征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いた人物である。と我々は教科書で習った。「イイクニつくろう鎌倉幕府」と年号を語呂合わせで覚えた記憶があるが、現在は1185年に変更され、「イイハコつくろう鎌倉幕府」と教えているらしい。まあ、その辺はどうでもいいことだが、伝説の舞台は、鎌倉幕府が開かれて間もない頃である。

 頼朝は幕府の力を知らしめるために東国各地で巻き狩りを行った。浅間山麓での狩りの途中に、草津温泉の入り口にある白根大明神まで馬を乗り入れたときだった。谷間に白煙が立ち昇っているのを発見したと伝わる。

 これが「白旗の湯」である。源泉地は湯畑広場の西、入浴施設「御座の湯」の前。木の柵で囲われた湧出地の中には小さな石宮があり、頼朝公が祀られている。ちなみに「白旗」とは、源氏を象徴する白い旗から名付けられたという。

腰掛け石と衣掛け石

 伝説によれば、酸性度の高い温泉に入って湯ただれをおこした頼朝は、周辺の弱アルカリ性で肌にやさしい湯を家来たちに探させたという。草津の「なおし湯」「ながし湯」とも呼ばれている沢渡温泉(中之条町)も、その一つ。「一浴玉の肌」といわれ、群馬を代表する「美人の湯」として知られている。

 温泉街の中心、共同浴場に隣接する老舗旅館「龍鳴館」の浴室には、頼朝が入浴の際に腰かけたといわれる「源頼朝公の腰掛け石」が残されている。一見、ふつうの石に見えるが、よく見ると所々に傷がある。これは昭和10(1935)年の水害による山津波と、同20年の山火事から温泉街を全焼した大火の際に被害を受けた跡だといわれている。

 川原湯温泉(長野原町)にも、こんな伝説がある。昔、源頼朝が浅間山へタカ狩りに出かけた際に、川原湯を通りかかると岩の間からコンコンと湯が湧いているのを見つけた。その時、傍らにあった大きな石に衣をかけて湯に入ったことから「衣掛け石」と呼ばれるようになったという。この石は現在でも共同浴場「王湯」前の広場に鎮座している。また王湯の入り口には、頼朝の紋所である「笹竜胆」がシンボルとして掲げられている。

頼朝の墓があった!?

 花敷温泉(中之条町)は、温泉地名の名付け親が源頼朝だと伝わる。『山桜夕陽に映える花敷きて 谷間にけむる湯にぞ入る山』と歌を詠んだことから、地名を「入山」、温泉地に「花敷」の名が付いたという。

 これらは、すべて伝説であり、史実としての根拠はない。信じるか信じないかは読者次第なのだが、頼朝つながりで、こんなことを言ったら驚かれるだろうか?

 "源頼朝の墓が群馬にあった!?"

 頼朝の墓所といえば当然、誰もが鎌倉だと思う。ところが群馬にもあったのだ! 赤城山麓にある珊瑚寺(前橋市)である。

 住職の話によれば、珊瑚寺は大同2(807)年に開山したが、その後約400年間は無住寺となっていた。鎌倉初期に梶原景時の女といわれる女性が尼僧となってここに移り住み、梶原景時父子と源頼朝の霊を慰めるために堂を建てたという。景時といえば頼朝を支えた人物である。その愛人(?)が住み着いた寺というのだから頼朝の墓があっても不思議はない。

 境内には、梶原景時父子と源頼朝の墓が並んで立っていた。ただし頼朝の墓石には、「源よりとも」と平仮名で刻まれていた。尼僧ならではのやさしさの表れだろうか? 謎学の旅は、つづく。

(フリーライター/小暮 淳)

〈参考文献〉
◦「ぐんまの源泉一軒宿」(上毛新聞社)
◦「群馬の小さな温泉」(上毛新聞社)
◦「天台宗石井山三光院 珊瑚寺」(パンフレット)
ほか

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