牧水が愛した群馬の地酒と温泉 ― 第一話 沼津 ~ 佐久 ~ 軽井沢 ―
歌人の若山牧水は、大正11(1922)年 10月 14日から28日までの15日間、長野県から群馬県を横断し栃木県へ抜けるまでの旅をした。ご存知『みなかみ紀行』である。このシリーズでは牧水の足取りを令和の現代に置き換えて、たどることにした。
信州最古の老舗宿に投宿
若山牧水(1885~1928)は宮崎県の生まれ。本名は若山繁という。利根川水源の山や渓谷などの自然に魅せられ、群馬県には8回訪問している。延べ約60日間滞在し、13編の紀行文と400ほどの歌を残した。
晩年は静岡県沼津市に暮らした。とはいっても43歳で他界。死因は肝硬変だった。朝2合、昼2合、そして夜に6合の酒を欠かさなかったという酒豪である。それゆえか暑いさなか、アルコール漬けの牧水の遺体は、なかなか腐敗しなかったというエピソードが残されている。
大正11年10月14日未明、牧水は沼津の自宅を出発する。東京経由で2人の青年を伴い、長野県北佐久郡の御代田駅(現・しなの鉄道)に汽車で降り立ったのは夜8時のことだった。佐久新聞社主催の短歌会に出席するためである。
駅では新聞社の人らに出迎えられ、自動車で新聞社のある岩村田町(現・佐久市)へ向かい、その晩は佐久ホテルに投宿。室町時代創業で現在も営業している信州最古の老舗宿である。
翌日は短歌会に出席。夕方、閉会後は近所の料理屋で懇親会。お開き後も10人ほどを引き連れてホテルに戻り、明け方まで酒宴を楽しんだ。
歌に詠まれた数少ない酒
『よき酒とひとのいふなる御園竹 われもけふ飲みつよしと思へり』
牧水は生涯に約9千首の歌を残し、酒の歌も300首以上と多い。が、飲んだ酒の銘柄を明記している歌は数少ない。その中に「御園竹(みそのたけ)」がある。明治元(1868)年創業の「武重本家酒造」(佐久市)の酒だ。
現在も営業しており、江戸時代後期の住宅と酒造施設30棟が歴史的景観を伝える重要な建物として、国の登録有形文化財に指定されている。酒蔵の前には「若山牧水の歌碑」が立ち、前出の歌が刻まれている。
短歌会の晩、牧水が飲んだ酒は何だったのか? 佐久市内には現存する酒蔵が多いので一概には言い切れないが、牧水はたびたび佐久を訪れており、お気に入りの酒として「御園竹」を歌に詠んでいる。ということは、この酒を口にした可能性が高いのではないか? 辛口でスッキリとした切れ味のいい、実に“よき酒”である。
予定は未定の気まま旅
10月16日。牧水と7、8人の同行は小諸町(現・小諸市)の「懐古園」に遊ぶ。といっても観光ではない。懐古園の中に新築したという一行の一人の家に招かれたのである。そこで︿お茶代わりの酒を馳走になった。﹀。宴は夕方まで続き、その晩は牧水を含め6人が星野温泉(軽井沢町)に泊まることになった。
︿その夜の酒は非常に賑やかな、しかもしみじみしたものであった。鯉の塩焼きだの、しめじのみそ汁だの、何の缶詰だのと、勝手なことを言いながら夜遅くまで飲み更かした。﹀
牧水は一人でも日に一升飲む酒豪だが、さらに相手がいれば平気で二升の酒を飲んだといわれている。完全に“うわばみ”である。
翌日も朝飯から昼近くまで飲み、さらに一行は、そば屋に河岸を変えて夕方まで飲み続ける。
当初の予定では、牧水は佐久から高崎まで引き返し、沼田方面へと行くはずだったが、酒を飲み続けるうちに気が変わってしまう。
︿「ねエK―君、君一緒に行かないか、今日この汽車で嬬恋まで行って、明日川原湯泊り、それから関東耶馬渓に沿うて中之条に下って、渋川・高崎と出ればいいじゃないか、僅か二日余分になるだけだ。」﹀と他の一行とは別れ、一人の青年を連れて草軽軽便鉄道(通称・草軽鉄道)に乗り込んだ。
いよいよ群馬への県境越えである。予定は未定の師匠と弟子の二人旅が始まった。