牧水が愛した群馬の地酒と温泉 ―  第八話 白根~丸沼~金精峠 ― 2025年11月21日号

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歌人の若山牧水は大正11(1922)年10月、群馬県を旅した。川の源流を目指す『みなかみ紀行』である。旅を始めて15日目、ついに憧れの源流「みなかみ」にたどり着く。シリーズ完結編。

目次

一升の酒を持って

 <宿屋に酒のなかった事や、月は射しながら烈しい雨の降った事がひどく私を寂しがらせた。そして案内人を雇うこと、明日の夜泊る丸沼の番人への土産でもあり自分の飲み代でもある酒を買って来てもらうことを昨夜更けてから宿の主人に頼んだのであったが、今朝未明に起きて湯に行くと既にその案内人が其処に浸かっていた。顔の蒼い、眼の険しい四十男であった。>
 10月27日、牧水は案内人を伴い白根温泉(片品村)を発ち、旅の最終目的である片品川源流を目指して歩き出した。それにしても牧水の酒への執着は尋常ではない。今夜の宿は深山の中で酒は買えないことを見越し、事前に一升の酒を用意しておいたのである。
 <沢を行き尽くすと其処に端然として澄み湛えた一つの沼があった。岸から直ちに底知れぬ蒼みを宿して、屈折深い山から山の根を浸している。三つ続いた火山湖のうちの大尻沼がそれであった。>
 さらに沼のへりに沿った小径を行くと、沼の源ともいうべき清らかな瀬をなして流れ落ちているところへ出た。そして、その瀬について行くと、また一つの沼に出た。丸沼である。+

丸沼
白根御苑に建つ歌碑

無くなった一升の酒

 事前に地主に許可を得ていた牧水は、沼べりに建つ小屋の老番人に紹介状を渡し、その晩の宿泊を申し出た。そして持参した酒を差し入れた。
 <昨晩の宿屋で私はこの老爺の酒好きな事を聞き、手土産として持って来たこの一升壜は限りなく彼を喜ばせたのであった。>
 ところがそこへ、思いもがけぬ3人の大男が現れた。ここよりも山奥で作業している木挽き職人たちだった。「用が済んで村へ帰るのだが、もう日が暮れたから今夜はここに寝かせてくれ」と言う。すると一瞬、老番人の顔が曇った。
 <同じ酒ずきの私には、この老爺の心持がよく解った。(中略)そして此処に五升もあったらばなァ、と同じく心を騒がせながら咄嗟の思いつきで私は老爺に言った。「お爺さん、このお客さんたちにも一杯御馳走しよう、そして明日お前さんは僕と一緒に湯元(日光)まで降りようじゃアないか、其処で一晩泊って存分に飲んだり喰べたりしましょうよ。」と。>
 案の定、一升の酒は瞬く間に無くなってしまった。

二升なり三升なり

 10月28日、朝。約束通り牧水は老番人を連れて、県境の峠へと向かった。やがて長い坂を上りはてると、また一つの大きな蒼い沼に出た。菅沼である。
 <それを過ぎてやや平らな林の中を通っていると、端なく私は路ばたに茂る何やらの青い草むらを噴きあげてむくむくと湧き出ている水を見た。老番人に訊ねると、これが菅沼、丸沼、大尻沼の源となる水だという。それを聞くと私は思わず躍り上った。それらの水の水源といえば、とりも直さず片品川、大利根川の一つの水源でもあらねばならぬのだ。>
 牧水はバシャバシャと水の中に入り、手を洗い、顔を洗い、頭を洗い、やがて腹がふくれるまでむさぼり飲んだ。ついに憧れの「みなかみ」にたどり着いたのだ。8回にわたる群馬の旅で、水源に接したのはこの時が初めてだった。

菅沼キャンプ場に湧く「牧水清水」


 午前10時45分。牧水と老番人は金精峠の絶頂に出た。
<真向かいにまろやかに高々と聳えているのは男体山であった。それと自分の立っている金精峠との間の根がたに白銀色に光って湛えているのは湯元湖であった。これから行って泊まろうとする湯元温泉はその湖岸であらねばならぬのだ。>
 しかし老番人は浮かない顔をしていた。「湯元へ行くのはやめる」と言う。牧水がいぶかると、「これから湯元まで行って一杯いただくと、帰るころにはこの道は霜柱が溶けて、酔った身では歩くのが恐ろしい」「ならば泊まればいい」と説得をしてみたものの、老番人の意志は固かった。「そうか」と牧水は、財布から紙幣を取り出して鼻紙に包んだ。
 <「ではネ、これを上げるから今度村へ降りた時に二升なり三升なり買ってきて、何処か戸棚の隅にでも隠しておいて独りで永く楽しむがいいや。では御機嫌よう、さようなら。」>
 そう言うと、急坂を湯元温泉のほうへ駆け下り始めた。なんとも牧水らしい別れである。酒と湯を愛した群馬の旅が終わった。【完】

(フリーライター/小暮淳)

【参考文献】
『新編 みなかみ紀行』 (岩波文庫)
『マンガ 若山牧水 みなかみ紀行』(利根沼田若山牧水顕彰会)
『みなかみ紀行より 利根沼田の牧水』(みなかみ町牧水会)

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