歌人の若山牧水は大正11(1922)年10月、群馬県を旅して9つの温泉地をめぐり『みなかみ紀行』を著した。シリーズでは、群馬の湯と酒を愛した彼の足取りを追う。旅も後半、さしもの牧水にも疲れの色が出始めるが……
湖底に沈んだ温泉
宴の一夜が明けた10月23日の朝。<うす闇の残っている午前5時、昨夜の草鞋のまだ湿っているのを穿きしめてその渓間の湯の宿を立ち出でた。>と牧水は、法師温泉の一軒宿「長寿館」を後にして歩き出した。この日のお伴は、前日、法師までの道案内をしたU―君(牛口善兵衛)と、途中から同行したM―君(松井太三郎)。二人とも牧水を敬愛する地元の文芸愛好者である。
<猿ヶ京村を出外れた道下の笹の湯温泉で昼食をとった。相迫った断崖の片側の中腹にある一軒家で、その二階から斜め真上に相生橋が仰がれた。>
当時、笹の湯温泉には「相生館」という宿があった。昭和31(1956)年に赤谷川がせき止められ、相俣ダムが完成すると湖底に沈んでしまった。同じく湖底にあった湯島温泉の3軒の宿とともに、代替地に移転。猿ヶ京温泉(みなかみ町)として再開したが、その後、相生館は廃業。“旧四軒”のうち桑原館(現・猿ヶ京ホテル)と長生館の2軒だけが、現在も営業している。

現存する蔵座敷
往路、沼田から法師までの9里(約36キロ)を1日で歩き通した牧水だが、さすがに復路となると疲れが出始めたようである。<湯の宿温泉まで来ると私はひどく身体の疲労を感じた。数日の歩きづめとこの一、二晩の睡眠不足とのためである。其処で二人の青年と別れて、日はまだ高かったが、一人だけ其処の宿屋に泊まる事にした。>
「湯の宿温泉」とは湯宿温泉(みなかみ町)のこと。『みなかみ紀行』には宿名までは記されていないが、金田屋旅館(現・ゆじゅく金田屋)である。明治元(1867)年創業。牧水が立ち寄った当時は2代目の時代だった。以前私は、5代目の現主人に話を聞いたことがあった。「牧水さんは、私の祖父が釣ったアユの甘みそ焼きを召し上がり、あまりのおいしさに、おかわりをしたと聞いています」。
そして、そのアユ料理は「牧水焼き」と名付けられた。また牧水が泊まった蔵座敷は、100年以上経った今でも現存している。


宿に残した珍品
翌10月24日。<今朝は私一人、やはり朗らかに晴れた日ざしを浴びながら、ゆっくりと歩いて沼田町まで帰ってきた。打ち合わせておいた通り、U―君が青池屋という宿屋で待っていた。>
その晩、宿屋では歌会が開かれた。集まったのは、法師へ発つ前の晩に泊まった「鳴滝館」を訪ねてきた青年たちや地元の文芸愛好者たちだった。当然、酒盛りが始まり、閉会したのは午前1時だった。
では、牧水たちが浴びるほど飲んだ酒とは? 当時、青池屋のすぐ近くに老舗の酒蔵があった。明治40(1907)年創業の土田酒造である。代表銘柄は「誉國光」だが、創業当時は「土田錦」だったという。平成4(1992)年、都市再開発計画に伴い、現在の川場村に移転した。

「土田錦がいつ頃まで造られていたかは定かではないのですが、うちの酒を飲んだ可能性は高いと思います」と、6代目社長の土田祐士さん。「もしそうだったら光栄です」と嬉しそうに笑った。
実は、この晩に牧水が酔いしれて書いた直筆の書幅が残されている。
『青池やの二階のへやにゑひ(酔い)しれて 書かせられたるこの歌ぞこれ』
この歌は牧水全集にも収録されていない珍品である。青池屋の軸は、沼田市役所に収蔵されている。
(フリーライター/小暮淳)
【参考文献】
「新編 みなかみ紀行」(岩波文庫)
「マンガ 若山牧水 みなかみ紀行」(利根沼田若山牧水顕彰会)
「校長通信 片中雑口把覧(ザックバラン)」(片品村立片品中学校)
【取材協力】
湯宿温泉「ゆじゅく金田屋」
土田酒造株式会社(川場村)