羊をめぐる不思議な話 2023年12月29日号

  • URLをコピーしました!
目次

ぐんま謎学の旅
続・民話と伝説の舞台(1)「羊太夫」

石碑に書かれている「羊」の文字。羊とは何を意味するのか?
諸説紛々の中、江戸時代に創られたという伝説の舞台を訪ねた。

「ひつじさま」と呼ばれる石碑

 『昔を語る多胡の古碑』と「上毛かるた」に詠まれる多胡碑(高崎市吉井町)。日本三古碑の一つに数えられ、平成29(1017)年には山上碑、金井沢碑とともにユネスコ世界記憶遺産にも登録されている。ただ歴史遺産としての価値が高いだけではなく、昔から謎の多い碑文としても注目されてきた。

 石碑には、こんな意味の文字が刻まれている。

<上野国片岡郡、緑野郡、甘楽郡並びに三郡の内、三百戸郡を成し、羊に給して多胡の郡と成す>

 この中の「羊」という文字について、方角説や誤字説などの諸説が紛糾しているが、現在は、帰化人の「羊」が多胡郡の郡司になったことを記憶した建郡記念碑との説が定着している。また、地元では多胡碑のことを「ひつじさま」と呼んで信仰の対象として祀り、大切に今日まで守ってきた。

 そして生まれたのが「羊太夫」の伝説だった。

子羊を抱いた白髪の老人

 今から千三百年ほどの昔。奈良に都があった頃、上野国多胡郡の八束山の城に、藤原将監勝定という城主がいた。夫婦仲が良く、富み栄えていたが、いつまでたっても子宝に恵まれなかった。

 ある日、「このうえは、神様にお願いするしかあるまい」と夫婦で近くの大沢谷のお不動様に通い、願をかけた。すると7日目の明け方のこと。夫婦の前に、子羊を抱いた白髪の老人が現われて、こう言った。「これを与えよう」。

 それからほどなくして奥方は身ごもり、男の子を生んだ。その子は羊の年、羊の日、未の刻に生まれたことから「羊太夫」と名付けられた。

 八束山は「吉井三山」の一座で、地元では城山の愛称で親しまれている。山頂には「羊の足跡」と呼ばれる名所まで残っている。では、大沢谷のお不動様とは? 現在の住吉神社のことのようだ。大沢川の上流、神社裏の「東谷渓谷」の断崖に、今でも不動明王が祀られている。

都を日参する駿馬「権田栗毛」

 時はめぐり、藤原羊太夫宗勝は父のあとを継いで城主になると、郡司として領地を治め、領民からも大変慕われていた。ある日、権田(現・高崎市倉渕町)の長者から一頭の駿馬を献上される。「権田栗毛」と名付けられた名馬である。ただし条件があった。それは若い小脛という男を一緒に雇うこと。でなければ「この馬は誰一人扱えない」と長者は言った。

 この馬を調教した場所が「馬庭念流」で知られる馬庭(高崎市吉井町)の地名の起こりだという。

 権田栗毛は駿馬ではあったが、より力を発揮するのは小脛がたづなを持った時だった。奈良の都まで、どんな名馬を乗り継いでも7日かかる道のりを小脛がたづなを引けば、1日のうちに往復した。ところがある日のこと。羊太夫は、木かげで休む小脛の両腕の脇の下に、奇妙なとび色の羽があることに気づいてしまう。そして好奇心から「これは何だ?」と引き抜いてしまったのである。

 すると権田栗毛は二度と奈良の都を日参することが出来なくなり、それにより朝廷は羊太夫が謀反を企てていると勘違いし、大軍を送り込み、八束城を攻め滅ぼしてしまった。

奇想天外な伝説のオチ

 実は、この話には続きがある。諸説あるのだが、逃げた奥方一行の7人が自害し、遺体を7つの輿に納めて弔った塚が七輿山古墳(藤岡市)とか。また羊太夫と小脛は燃え盛る城の中で金色の蝶になり、飛んで舞い降りた先が現在の多胡碑のある所だったというオチが付いた話まである。

 奇想天外ではあるが、一つの石碑に書かれた、たった一文字から生まれた伝説にしては、壮大なスケールで描かれた傑作だといえるだろう。それにしても小脛とは、いったい何者だったのか? それを解くカギは権田栗毛にありそうだ。謎学の旅は、つづく。

(フリーライター/小暮 淳)

〈参考文献〉
◦「日本の伝説27 上州の伝説」(角川書店)
◦「ふるさとの民話 藤岡」(あかぎ出版)
◦「『上毛かるた』で見つける群馬のすがた」(群馬県)
◦「多胡碑」(池田壹臣) ほか

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

群馬県内のタウン誌、生活情報誌、フリーペーパー等の編集長を経て、現在はフリーライター。
温泉の魅力に取りつかれ、取材を続けながら群馬県内の温泉地をめぐる。特に一軒宿や小さな温泉地を中心に訪ね、新聞や雑誌にエッセーやコラムを執筆中。群馬の温泉のPRを兼ねて、セミナーや講演活動も行っている。

目次