玉村町の「玉」は竜の玉
町の地形が、竜の頭の形をしているという。
なぜ、竜なのか?それには地名伝説が関係しているらしい。古文書に書かれている驚きの記述とは?
謎のキーワード「竜の玉」を追って、玉村町を訪ねた。
竜を意味する町名
今年の干支は「辰」。なぜ十二支の中で、竜だけが想像上の生き物なのだろうか? 今回の謎学の旅は、ここから始まった。
古代中国では竜は、威厳や繫栄の象徴。皇帝のシンボルにも用いられた。麒麟(きりん)や鳳凰(ほうおう)なども同様のシンボルだが、竜ほど馴染みがない。竜は、日本人にとっては特別な存在なのかもしれない。
群馬県内にも「竜」「龍」「辰」の字が付く地名がある。だが、その語源を調べ見ると、そのほとんどが想像上の生き物とは無関係だった。方位を表わす巽や辰巳から転化した地名である。
ところが何の変哲もない地名なのに、〝竜〟を意味する町名があるという。それは佐波郡の玉村町だ。
龍頭の姿現す玉村町
そう「たまむら歌留多」に詠まれている。本当だろうか? 玉村町歴史資料館を訪ね、町の地図を見せてもらった。二等辺三角形の地形は、言われてみれば竜の頭の形に見えないこともないが、かなりのこじつけに思われる。そもそも、なぜこの地形から竜を連想したのか?
資料館に展示されている古文書「玉村之故実」に、玉村の地名伝説が記されていた。
竜人となった村娘
平安時代の天慶年間(938~947)のこと。ある土豪が、沼田(現在の伊勢崎市柴町・八斗島町・玉村町五料地域)に住む美しい娘を平将門に差し出すことを企てた。この企みを知った娘の父親である地頭は、娘を娘と恋仲であった錦野の里(現在の玉村町地域)の若者のもとへ走らせた。しかし、娘は土豪の追っ手に追い込まれ、ついに矢川に身を投げてしまった。このとき、駆けつけた若者も同じく身を投げたという。
その後、この川に青く光る2つの玉が、夜な夜な漂うようになり、村人たちは「娘は竜人の化身で、玉は竜人のあぎと(あご)にある玉の精であろう」と考え、この玉を拾い上げて近戸大明神(現在の玉村町の福島と南玉の間にあった神社)に祀った。それから約500年後、利根川の大洪水の際に竜神が現れ、大明神に竜巻を起こし、2つある玉のうち1つを持ち去ってしまった。そこで村人たちは貞治年間(1362~1368)に別院を設け、残る1つの玉を二重の箱に納めて祀ったことから、竜の玉のあるこの地を「玉村」と呼ぶようになったという。
竜の玉があった!
千年以上も昔の話である。すべてが創話と思いきや、いくつかの舞台が残っていた。追われた娘と若者が身を投げた「矢川」は、小さな用水路として現在も存在していた。ただし、2人が身を投げた実際の矢川は、天明3年(1783)の浅間山の大噴火により埋まってしまったらしい。
何よりも驚いたのは、〝竜の玉〟が今でも大切に保管されているというのだ。場所は、伝説に登場する別院。その寺に行ってみると門前には、こう書かれていた。「玉龍山 満福寺」。なんと山号が〝竜の玉〟だったのである。
二十八世の河村妙照住職に会って、話を聞くことができた。私の目の前に差し出されたのは、細長い黒塗りの箱だった。これが伝説の竜の玉が入った箱なのか? 住職は玉を見たことがあるのだろうか?
「1つ目の箱は開けたことがありますが、その中にある2つ目の箱を開けたことはありません」。理由を聞くと、2番目の箱を開けると失明するという言い伝えがあるからだという。
江戸時代には、同地の人たちが満福寺を訪れ、この玉を拝んだり、利根川まで玉を運び、水に浸して雨ごいをしたともいう。雨ごいの風習はなくなったが、今でも竜の玉と竜の玉伝説は、この町で大切に語り継がれていた。
(フリーライター/小暮 淳)
〈参考文献〉
◦「玉村町町制50周年記念誌」(玉村町)
◦「災害と玉村町」(玉村町歴史資料館)
◦「群馬の地名」(みやま文庫)
◦「群馬ふるさとの地名」(上毛新聞) ほか