歌人の若山牧水は大正11(1922)年10月、長野県佐久市から群馬県を横断して栃木県日光市へと抜ける旅に出た。名紀行文と称される『みなかみ紀行』である。行程のほとんどは群馬であり、温泉をめぐり、実によく酒を飲んだ。
河の上流を目指して

「みなかみ」とは川の上流、水源のこと。牧水は河の水源に特別な思いがあったようだ。
<私は河の水上というものに不思議な愛着を感ずる癖を持っている。一つの流に沿うて次第にそのつめまで登る。そして峠を越せば其処にまた一つの新しい水源があって小さな瀬を作りながら流れ出している、という風な処に出会うと、胸の苦しくなるような歓びを覚えるのが常であった。>
沼田を発った牧水一行は、いよいよ旅の目的である「みなかみ」を目指す。
前夜の歌会に集まった人たちが牧水を町はずれまで送り、「もう少し歩きましょう」と二人の若者が共に歩き出した。地元の文芸愛好者のU―君(牛口善兵衛)とK―君(生方吉次)である。しかし牧水は、農家であるU―君を3日間も連れ歩いていることに心の重荷を感じ、収穫時の忙しさを心配して帰らせることにした。しかしK―君は「老神まで送る」という。牧水は、しぶしぶ同行を受け入れて、歩き出した。
川原の中の露天風呂
土橋~下久屋~尾合~岩室~日向南郷と片品川沿いを行く。現在の県道62号(大間々街道)のようだが、当時はもっと川に近い所を道が通っていたらしい。
<片品川渓谷の眺めはやはり私を落胆せしめなかった。ことに岩室というあたりから佳くなった。(中略)岩の露われた嶮しい山、いただきかけて煙り渡った落葉の森、それらの山の次第に迫り合った深い底には必ず一つの渓が流れて滝となり淵となり、やがてそれらがまた随所に落ち合っては真白な瀬をなしているのである。>と絶賛。牧水は歩きながら15首の歌を手帳に書き込んでいる。
二人が老神温泉(沼田市)に着いたのは夜だった。当時、温泉宿は4軒しかなく、牧水が泊まったのは「朝日館」。のちの「朝日ホテル」(廃業)である。
<宿に入って湯を訊くと、少し離れていてお気の毒ですが、と言いながら背の高い老爺が提灯を持って先に立った。どの宿にも内湯はないと聞いていたので何の気なくその後を従って戸外へ出たが、これはまた花敷温泉とは異ったたいへんな処へ湯が湧いているのであった。>
温泉は、険しい崖の岩坂道を幾度か折れ曲がりながら降りた川原の中州に板屋根を設けた下に湧いていた。当時は、下流に薗原ダムが出来る前のことで、水かさも浅かったようだ。現在の温泉街は、片品川の両岸に移転している。


樽で運んだ甘口の酒
湯小屋から戻ると<註文しておいたとろろ汁が出来ていた。夕方釣って来たという山魚の魚田も添えてあった。>とあるが、その晩、牧水はどんな酒を飲んだのだろうか?
当時から現在でも、老神以北に蔵元はない。一番近い酒蔵は白沢村(現・沼田市)の大利根酒造である。会社としての創業は明治35(1902)年だが、この地で酒造りを始めたのは江戸中期だという。「一升徳利が残っていますが、道中、割れてしまいますから、たぶん老神までは樽で運んでいたと思います。当時の酒は『白泉乃誉(はくせんのほまれ)』といいました」と4代目社長の阿部倫典さん。現在の銘柄「左大臣」に比べると、かなり甘口の純米酒だったのではないかと言う。
翌朝、牧水たちは激しい雨音で目を覚ました。やむなく滞在と決めて、さっそく徳利を取り寄せた。朝2合、昼2合、夜に6合の計1升を毎日欠かさず飲んだという牧水。ここでも噂にたがわぬ、酒豪ぶりである。
相変わらず、予定は未定の自由気ままな旅。はたして「みなかみ」へは、たどり着けるのだろうか?
(フリーライター/小暮淳)

【参考文献】
「新編 みなかみ紀行」(岩波文庫)
「マンガ 若山牧水 みなかみ紀行」(利根沼田若山牧水顕彰会)
「千日堂から牧水が眺めた・みなかみ」(みなかみ町まちづくり協議会 月夜野支部)
ほか
【取材協力】
大利根酒造有限会社(沼田市)